活法と整動鍼の使い分け(中編)「マッサージと活法の違い」
代表の栗原です。
前編では「鍼灸とマッサージでは評価の基準が違うから両立は難しい」ということを書きました。基本的には、マッサージでなくても、按摩でも指圧でも同じです。にも関わらず、鍼灸学校では、鍼灸とあん摩マッサージ指圧師がセットになっています。セットになる理由は理解できますが、とても大きな誤解を与えています。
今回のスジからは外れますが、いわゆるマッサージ業には免許は必要ないという現実も、鍼灸師の地位を混乱させています。あん摩マッサージ指圧師の業務領域は守られていません。
それでは、本題に入っていきます。
触れる技術
「鍼灸師はマッサージで技術を磨くべき」という意見の裏側にあるのは「触れる技術を磨かなければツボがわかるはずがない」という主張があると思います。私自身が、あん摩マッサージ指圧師であるから、その言わんとする意図はとてもわかります。触れる技術を磨くという点においては、まったく異論はありません。
そもそも上手に触れることができなければ、患者さんは緊張してしまいます。確かに、触れ慣れている状態をマッサージで会得できると思います。むしろ、これほど触れ慣れる機会を与えてくれるものはないでしょう。
問題は触診で起こります。マッサージで作った手がキャッチするツボと、鍼灸の専門教育で作られた手がキャッチするツボが違うものです。まずスケールが違います。マッサージでは手掌や指のサイズが指標になります。このサイズから見える世界があります。
いっぽう、鍼は点の世界です。点の異常感を探し出さなければなりません。親指で捉えた異常感(コリ感など)があっても、その中心が正確にわからなければ正確な鍼は打てません。
触れる技術は、鍼灸の教育でまかなえます。問題があるとすれば、マッサージをしている人には敵わないという思い込みだけです。ハッキリ言ってしまえば、マッサージで作られた手は、鍼灸家からみたら癖でしかありません。
気持ち良さ
マッサージで作られた手は、気持ち良さを探すのが得意です。受け手の気持ち良さに合わせられるかが評価の対象になるため、そういう能力が磨かれます。それが当たり前、となった時点で癖です。気持ち良さを探す能力は鍼灸でも活かせます。しかし、それでOKと思っていると癖でしかありません。
ツボを探す時は、受け手の気持ち良さが重要ではありません(不快な思いをさせてよいという意味ではなく)、わからないくらい軽く触れる場合もあれば、相手が痛がっても強く触れる場合があります。
たとえば、橈骨の形状突起にある列缺を探す時、皮膚の下は、腱と骨なので、気持ち良さを引き出せるポイントがありません。マッサージで育てられた手が苦手とするツボだと思います。
私は、よく患者さんに異常感を認識してもらうために、ツボを痛く感じるように押すことがあります。慰安マッサージ店で、「お客さん、ここ凝っていますね~」とやっているのと意味は近いのですが、絶対にグリグリっとやりません。柔らかい指で触れ、受け手が痛みを感じる程度まで瞬間的に指を硬くし、感じやすい状態を作るのです。
術者の指の緊張をコントロールすることで、受け手の感じ方を変えるテクニックです。たとえば、圧に耐えられる強い指にすることを「指をつくる」と考えている世界からは想像ができないと思います。
指の使い方は大事ですが、指は患者さんとの接点でしかありません。体の使い方が大事です。体の使い方の一部として指の使い方あると考えています。
活法の体の使い方
お待たせしました。ここからが活法の話です。
活法は、柔術(古武術)の裏技から始まっているので、体術を学ぶには最適です。
施術は格闘技です。格闘技と目的が逆ですが、他はだいたい同じです。こういう考え方ができること自体が活法です。
マッサージでも距離感はあると思います。でも、受け手は止まっています(時には寝ています)。施術しやすい距離を間違っても気が付かれることなく修正ができます。マッサージは寝ていても成立する一方的な行為です。
それに対して、活法では相手が動いています。この点が格闘技と同じです。よいポジションを探し続ける必要があります。しかも相手に気が付かれないようにしなければなりません。
あえて、「受け手」ではなく「相手」と書いてみました。活法では患者側になる方も能動的だからです。
活法では、術者の方が受け手になることもあります。互いに能動的な関係の中で行うのが活法です。このことを知った時、脳の中でスパークが起こりました。
(後編につづく…テクニックを超えた価値)